原作者が映画制作に挑むも大惨事?大佛次郎さん版『鞍馬天狗』の失敗から読み解く小説と映画の違い
昔、「鞍馬天狗」の原作者、大佛次郞さんが嵐寛寿郎さん主演の鞍馬天狗に対し、原作の書き換えや人を斬りすぎるなどの理由から制作を禁止し、自ら鞍馬天狗の映画を撮るという事件がありました。当時 大佛さんは原作が何本も映画化されるほど超有名な小説家です。
1954年に東宝から小堀明男さんを天狗役に「新・鞍馬天狗」というタイトルで3本公開されますが、日本映画史に残る大惨事と称され、大佛さんをはじめ出演者も低い評価をされてしまいました。 この映画の損害補填のために嵐寛寿郎さんが再び天狗となり2本製作されますが、中でも寛寿郎さん最後の鞍馬天狗となる『疾風!鞍馬天狗』は何度も見返すほどかっこよくて素晴らしい映画です。
原作者が自分の作品を映画化すれば最高傑作になりそうなはずが、なぜ大惨事とまで言われるほどの映画になってしまったかというと、大佛さんの映画を見る限り、以下の4点が要因かと思います。
1:小説の文字がそのまま映像化された
2:キャラが全員無感情
3:役者ならではの役作りが一つも見られない
4:見どころがない
1:小説の文字がそのまま映像化された
ということについて、脚本には大佛さんも加わっていますが、セリフが小説のようなので。文字を延々と喋っている。小説ではそれでいいのかもしれませんが、映像ではきつい。小説家である大佛さんにとって、小説の中の言葉は伝えたい大事なところだから、削れなかったのだと思います。
さらに映像では、延々と馬が走っている、延々と鳩が飛んでいる、天狗と吉兵衛や他のキャラとの出会いのエピソードをいちいち細かく入れる。本筋に関係のないことを長々とやられるとつまらないし、なんの話かわからなくなります。 おそらく大佛さんは、映画でキャラクターが急に障子を燃やすとか、不意に小道具を見せるとか、そういうことはできないだろうなと思います。
2:キャラが全員無感情
みんな棒読みのような台詞回しです。感情表現が乏しく、全員役名があるけど中身は同じのっぺらぼう。そういうふうに演じてくれと指示をしたのではないかと思うほどでした。 親方にいじめられている角兵衛獅子の杉作たちが、親方を全く怖がっておらず、食べさせてもらえない状況や稼ぎがないと叱られる怖さや悲しさ、辛さ、苦しさの感情・行動がない。また、親方も全く怖くない普通のおじさん。これではしらけてしまいます。
3:役者ならではの役作りが一つも見られない
昔の映画はキャラクターに役者さんならではの個性が必ず入っていたものですが、それがない。まるで役者さんの私生活を撮っているような感じに見えました。
しかし、疑問に感じているところもあります。東宝の役者さんを私は映画業界の中でも大変優れていると思っており、東宝映画を見ては毎回東宝の役者さんたちたちはすごいなと思っています。しかし、この新・鞍馬天狗での東方の役者さんたちには何も感じません。というのもどこか消化試合のような遠くを見るような、心ここに在らずのような、空っぽのようなものを感じます。この映画化に関して選ばれた役者さんたちは本当のところ、どう思っていたのか、気になるところです。それほど、東宝の役者として違和感を感じる演じ方なのでした。
4:見どころがない
初めから終わりまで抑揚がなく、盛り上がりがない。明らかにここを盛り上げるところだよねというところも淡々と運ぶ。なぜか。小説に出てくる、このキャラクターはこういうことをするよね?ということが描かれているだけで終わってしまうため、全く盛り上がらないのです。これ、ものを書いているとすごくよくわかると思うのですが、本人は盛り上げて作っているつもりなんです。でも、違う人が見るとそうでもない。なぜか。あらすじを追っているだけだとそうなるのです。キャラが置いてけぼり。そういう流れの映画でした。やはり、キャラクターならではの感情表現や、行動ができないと映画って伝わらないんだなと感じました。キャラは大事ですね。
他にも違和感を感じたところを挙げればキリがないですが、大佛さんも公開後の惨劇には心中穏やかではなかったと思います。小説家は所詮、小説家であったということです。 大佛さんは文字だけで人々を熱狂させてしまう表現ができたので、映画を作っても小説と同じようにうまくいくと思ったのかどうかは不明です。
しかし、小説家というのは恐ろしく頭の中が言葉だけでできているのである、とも感じました。
嵐寛寿郎さん主演の鞍馬天狗の凄さは話せば長くなるので別の機会にしますが、嵐寛寿郎さん主演で様々な映画会社で46本、30年?くらい長く製作されていた鞍馬天狗。 それなのに、なぜ急に大佛さんは物言いをし、嵐寛寿郎さんの鞍馬天狗を封印させたか、というところは気になるところです。
大佛さんは理由の一つに嵐寛寿郎さんの天狗が斬りすぎと言っていますが、大佛さんが製作に関わった新・鞍馬天狗もかなり斬っていました。なので、これは本当の理由ではなかったと思います。次に原作の書き換えについて、こちらは多少はあると思いますが、私は原作も読んでいますけど、結構忠実だと思います。細かなところでは違うかもしれませんが、そこは原作者としては嫌だったんだろうなとは思います。
映画は小説通りにやっても盛り上がらないのですけど、大佛さんくらい才能のある方が、小説と、映画の違いについて知らなかったとは思えませんので、原作の書き換えについても、大きな理由ではなかったんじゃないかと思います。ということで本当の理由は他にあったんじゃないかと思います。
私が勝手に考えるに、大佛さんの懇意にしていた女性が嵐寛寿郎さんを好いていたとか、そんな理由だったんじゃないかなーと思います。これはあくまで私の意見ですので信じないでください。
映画ってプロの人たちがそれぞれの担当箇所でプロフェッショナルを出して、総動員して作っている大変すごいものなんです。フィルムで見るとそういうところが見えないので、簡単に作れそうにも見えますけど、やってみると同じようにできない。ヒットさせる映画を作れるって本当にすごいことだと改めて思いました。
一方で小説は、映像・映画のようなハラハラドキドキを与えることは不可能だと思います。小説は読後にジーンと残るものがあるとか、人間の心理描写に強く共感することが特徴的で、外的な描写などはあまり印象に残らないものでもあるのかなとも感じました。逆に心理描写を延々と映像化されると苦しい・・・小説では素晴らしいけど、映像化するときつい。映画と小説は反比例するものかなと感じます。